2007年2月24日土曜日
生野島 その3
古本で入手した迦洞無坪の著作は「陶房日記」と題されている。
その文章の多くは、序文を記している諏訪令海というお坊さんが、
頼み込んで「浄宝」という雑誌に寄稿してもらったらしい。
諏訪令海は広島、今の平和記念公園辺りにあった浄宝寺の住職である。
「浄宝」という雑誌は、寺のコミュニティ誌のような
ものだったのだろうか。
令海はその後原爆で亡くなっている。
浄宝寺は戦後、疎開で命を長らえたご子息の諏訪了我氏によって
再建され、広島の大手町に現存する。かつての寺から南東に5~600m
ほど離れた場所である。
陶房日記の序にはもう一人、足利浄圓が文を寄せている。
浄圓は京都の印刷会社同朋舎の創業者として名前を知られる。
米国留学も経験している非僧非俗の宗教者である。
生野島の同朋園は、近郷の熱心な信者が氏を時々招き
法話を聴くために、島に移り開墾して作り上げたものだという。
山頭火が訪れたのは、そんな生野島だった。
島は黙して多くを語らない。
2007年2月16日金曜日
生野島 その2
2007年2月14日水曜日
生野島 その1
12月に竹原から白水に渡り、更にフェリーで生野島を訪れた。
山頭火が訪れてからほぼ3/4世紀、そんな気配なんか全く見えない。
打ち捨てられたような蜜柑畑がぽっかり残り、高所から眺める多島海が
哀しいほど綺麗だ。
帰ってから調べると、山頭火は陶工の迦洞無坪を尋ねているらしい。
その無坪の著作を古本で見つけた。無坪は京都から家族を引き連れ、
生野島の同朋園という真宗の念仏道場にやって来たらしい。
それがどこにあったのか、SHIMADASにさえ載っていない。
国会図書館の蔵書を調べると、地元の郷土史家とおぼしき
福本清という人物が、その辺りの経緯を書いた「生野島物語」
という本があるらしい。
広島県立図書館の蔵書にもあるようで、そのうち機会があったら
読みに行きたいと思う。
それぞれの島にはかくの如く、私の知らない人々の歴史が
満ち満ちている。
そしてこれからも島は在りつづける。
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