2007年5月4日金曜日

中通島 その1


長崎は日本で最も島の数が多い県である。島旅ごころを
くすぐられる場所である。
昨年初秋に五島に渡った。行きは九州商船のジェットフォイル、
帰りはORCのターボプロップ機である。

中通島は今も静かな祈りの島である。この冬漏電によって
焼失してしまった江袋教会も、この時にはその端麗な姿を
見ることができた。

米山、津和崎まで行って目につくのはキリスト教徒の集落と
仏教徒の集落の構造の違いである。キリスト教徒の集落は
道路から見ても目立たたず、急坂の途中にへばりつく様に
疎らに家が建てられている。また船隠、猪ノ浦や焼崎などは
今でこそ道があるが、かつては確かに船しか交通手段が
無かったと実感される土地である。

もともと仏教徒の島に、後から崩れを逃れてたどり着いた
彼杵の切支丹たちには、こうした場所しか残されていな
かったという。その強靭な精神の力に改めて感嘆する。
そしてそれは今から数世代と離れていない頃の話なのである。

こうした小さな教会も、高齢化で維持が困難となっている
所が多いと聞く。建物が残ったとしても、野崎島の野首
天主堂のように虚しい痕跡を晒す外ない。人間の輪によって
支えられている文化遺産を、次の世代に受け継ぐ手立ては
無いものだろうか。

2007年3月28日水曜日

ハイジのブランコ その2


高校物理で習う振子振動の式は、振幅が小さい場合の近似式である。
ハイジのブランコのこぎ方は、この式にはそぐわない。
ブランコの長さを求めるためには、第一種完全楕円積分
用いるべきである。その場合、振幅角が必要となる。

仮定として、OPで最大振幅となったシーンは、ブランコ振動面に
対し垂直で、正確に水平方向を向いているとしよう。
(それに近いレイアウト設定だと思う)
このとき、25インチモニタで測定した長さでは
ブランコ綱からなる斜辺(モニタ端まで)が344mm、ブランコから
水平方向にモニタ端までが325mmであった。
これよりcos-1(325/344)=19.1度、よって振幅角は
90.0-19.1=70.9度である

テイラー展開した( )の中はθ=70.9度として
第2項が0.084098、第3項が0.015913、第4項が0.003717
第5項が0.000957、第6項が0.000261、第7項が0.000074
…となり、足し合わせて約1.105である。
これからLを求めるには
L=g(T/(2π×1.11))2
において、改めてg=9.80、T=8.66を代入する。
得られた結果は
L=15.1m
となる。より確実には有効数字2ケタ、15mであろう。
いずれにせよ言説の27mに対し、その6割に満たない。

あるある大事典の問題ではないが、自分で真偽を確認する事なく
物事を鵜呑みにして流用する怖さが、まざまざと見えてくる。
色々な場面で同様な事例が存在しているのだろう。

追記
現実とフィクションのごった煮は宜しくないというお叱りもあるだろう。
それは甘んじて受け容れるが、その上で言わせてもらいたい。
スタッフが制作前にロケハンを敢行した事実を、忘れてはならない。
高畑、宮崎らが人間ドラマを確固たるものにする手段として、
リアリズムを追究した事を貶めてはいけない。

ハイジのブランコ その1


WebではハイジOPのブランコの長さが27mであるという出所不明の
言説が、繰り返し無批判的に引用されている。
果たして本当だろうか。検証してみる。

まず有効数字であるが、フィルムのコマ数を数えない限り、
3ケタはかなり厳しい。当方はその環境にないのでビデオ資料で
ストップウォッチ計測である。2ケタを前提として、出来るだけ
3ケタ計測となるように試みる。

次に重力加速度である。
それらしき場所として、Maienfeld北東のHeidihütteとする。
(場所はスイス政府地形図部門のオンライン地図参照)
緯度はマップクエスト
北緯47.02度(東経9.545度)と推定される。
Heidihütteの高度は1113mである。

緯度から標準重力を求める式は、日本測地学会のweb教科書
載っている。これにψ=47.02度を代入すると、重力加速度は
9.808ms-2となる。

高度補正係数は0.3086mGal/mであり、標高1113mでは
-0.3435Gal=-3.435×10-3ms-2
ブーゲー異常は資料のFig3.1から
-105mGal=-1.05×10-3ms-2
補正後の重力加速度は、
9.808-0.003435-0.00105=9.804ms-2
有効数字3ケタだと9.80ms-2である。

ビデオからの計測によると、ブランコ1/2周期に要する時間は
4.33秒である。有効数字2ケタ(4.3秒)だとかなり信頼性は高い。
無論、カットの繋がりにタイムラグが無いと仮定しての話であるが、
それを否定すると、長さの議論はできなくなってしまう。

Webの言説はこの時間を6秒としている。ここで大幅に
長さが違ってくるはずである。
振子振動の式、L=g(T/(2π))2にg=9.80、T=8.66を代入し
L=18.6m となる。

しかしこの答えは正しくない。




[5/4追記] Webでの言説は柳田理科雄氏の著作に拠る所が
大きいようだ。氏の姿勢に疑問を感じざるを得ない。

2007年3月20日火曜日

The Universe から an universe へ


宇宙のランドスケープに寄せて

世界は大亀の背中から球状になり、
その中心は地球から太陽に移り、
そして太陽は銀河系の片隅を周回し、
ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドに見られるような銀河は
全天にあまねく広がっている。

思えば人間のコスモロジーは、特別だったものがごく普通の
ものになる繰り返しだ。
(どことなく子供が成長によって客観視を獲得してゆくのに
似ている)
この宇宙とて、無数にうごめく多様な宇宙の中で、
取るに足らないひとつの平凡な宇宙であったとしても、
何の不思議もない。

これは既に人間原理を超えて、対立していた宇宙原理との
止揚の一形態ではないのだろうか。
非立証性の命題は科学の範疇を逸脱するか否かはさておき、
そんな領域までやってきた人間の力が頼もしいし、
虚空を眺めて今も産み落とされつつある、へんてこで
名も無い宇宙が有ると想像するのもまた楽しい。


2007年3月6日火曜日

生野島 その4



今回は廻ってこられなかったが、生野島の東岸には海水浴に適した
浜がある。
その近くには大崎上島町の自然休養村キャビンもあり、
7,8月は訪れる人も増えるようだ。

カヤック愛好の人達が、穏やかな水面を渡ってこの島を訪れ、
和らいだひと時を過ごしている事が、複数のウェブログから
知ることができる。

たとえこの島が将来、過疎の極みまで行き着いたとしても、
この島を愛で、島に会いに来る人は無くならないと確信めいた思いが、
風に乗って流れてくる。


…契島発白水行の帰りのフェリーに、危く置き去りにされるところでした。
桟橋に出て、乗客がいるという事をはっきり相手に見えるようにしましょう。
(手を振るとかね) 勉強させていただきました。


2007年2月24日土曜日

生野島 その3



古本で入手した迦洞無坪の著作は「陶房日記」と題されている。
その文章の多くは、序文を記している諏訪令海というお坊さんが、
頼み込んで「浄宝」という雑誌に寄稿してもらったらしい。

諏訪令海は広島、今の平和記念公園辺りにあった浄宝寺の住職である。
「浄宝」という雑誌は、寺のコミュニティ誌のような
ものだったのだろうか。
令海はその後原爆で亡くなっている。

浄宝寺は戦後、疎開で命を長らえたご子息の諏訪了我氏によって
再建され、広島の大手町に現存する。かつての寺から南東に5~600m
ほど離れた場所である。

陶房日記の序にはもう一人、足利浄圓が文を寄せている。
浄圓は京都の印刷会社同朋舎の創業者として名前を知られる。
米国留学も経験している非僧非俗の宗教者である。
生野島の同朋園は、近郷の熱心な信者が氏を時々招き
法話を聴くために、島に移り開墾して作り上げたものだという。

山頭火が訪れたのは、そんな生野島だった。
島は黙して多くを語らない。

2007年2月16日金曜日

生野島 その2



島を凝視すると未来の日本を見透かすことも出来よう。
生野島の老齢人口は70%を超えているだろうか。
フェリーの乗客も若者は皆無だった。

福浦、くさの浦、月の浦と歩みを進めると何処も廃屋が痛々しい。
時代とは言え、弱いものがあっさりと切り捨てられる構図を
蔦が生い茂る壁が静かに物語っている。

島の人達も腕をこまねいていた訳ではない。
福浦の真正面に、復興を賭けていたアワビ加工場の建物がある。
しかし操業は6年ほど前に終了している。

こうして消えてゆく故郷がどのくらい増え続けるのだろう。
行き場の無い痛みに似た感情が胸に湧くのを覚える。

そう、訪れるのは今しかないんだ。


2007年2月14日水曜日

生野島 その1



12月に竹原から白水に渡り、更にフェリーで生野島を訪れた。
山頭火が訪れてからほぼ3/4世紀、そんな気配なんか全く見えない。

打ち捨てられたような蜜柑畑がぽっかり残り、高所から眺める多島海が
哀しいほど綺麗だ。

帰ってから調べると、山頭火は陶工の迦洞無坪を尋ねているらしい。
その無坪の著作を古本で見つけた。無坪は京都から家族を引き連れ、
生野島の同朋園という真宗の念仏道場にやって来たらしい。
それがどこにあったのか、SHIMADASにさえ載っていない。

国会図書館の蔵書を調べると、地元の郷土史家とおぼしき
福本清という人物が、その辺りの経緯を書いた「生野島物語」
という本があるらしい。
広島県立図書館の蔵書にもあるようで、そのうち機会があったら
読みに行きたいと思う。

それぞれの島にはかくの如く、私の知らない人々の歴史が
満ち満ちている。
そしてこれからも島は在りつづける。